音楽芸術の本質

昨日楽譜が読めないという話を書きましたが、音楽芸術というのは音として再現される、という点においてその本質は「常に3つの立場がある」ということだと私は思っています。
つまり「音楽」という芸術は作曲した人の視点、演奏する人の視点、観客として聴く人の視点の3つがあるということです。
作曲家が作品を作り出さなければもちろん音楽は生まれないわけですが、作曲家がいくら楽譜に音符を書いて「作品自体」は存在したとしても、それが実際の音になっていないのであれば、その作品は完成して存在している、とはいいがたいわけです。
ちょっと脇にそれますが、勿論作品としては書かれたもの自体が存在のすべてですが音として鳴らないことを前提に書かれた、つまり楽譜であることをもって存在意義のある作品があることは私は不勉強故知りません。
さて、では演奏する視点というのはどういうことでしょう。これはすごく簡単です。今は優秀なコンピュータがあります。サンプリングした音源を打ち込み、楽譜通りに演奏させることは可能ですが、そんなものでコンサートが出来るでしょうか?お金を払って聴きにいきたいですか?
そうではないですよね。
つまりどのオーケストラがどの指揮者によってしかも、どのホールで演奏されるか、なんてことまでが再現者である「演奏家」には求められるわけです。
上述のように作品は音として鳴って初めて価値があるわけですから作曲家と観客だけの音楽というのはなかなか成立しがたいわけです。
では、観客がなく、作曲家の作品を演奏家が演奏しているだけでは音楽作品とはいえないのでしょうか?
ここはきわめて微妙なところです。
私の大好きな指揮者ムラヴィンスキーはプローベで完璧な演奏をした際には、本番の公演をしなかったそうです。この話にはいろいろ裏がありそうですがムラヴィンスキーは音楽の神のためにだけ演奏して、観客がいるかどうかは問題にしなかったそうです。
しかし、音を出すという行為、演奏するという行為はやはり鑑賞する人間、言い換えるとその音楽を聴かせる対象となるべき人間に向かって行われるべきものでしょう。
自己満足の演奏ではそれは演奏とはいえないし、暴走族がマフラーを外したバイクで道路を走り回っているのと大差ないのだと私は考えています。
うちの楽団はまだまだ芸術について語る資格のある演奏は出来ていません。しかしね、少なくとも音楽暴走族でいいはずはありません。
常に音楽というものが3つの視点を持って同時に存在しているのだ(自分さえ良ければいいというのは大きな間違いだ)ということだけは忘れないでいこうと思っています。

アバター画像

About NO Masaharu

元々トロンボーン吹きですが、棒振りです。好きな作曲家はベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナーです。 ビールと餃子とカレーが大好きです。