0から1と1から100

こんにちは、指揮者のひともぢです。

うちの楽団は15年の歴史がありますが、楽員数の最大は97人で、いまは41人です。

一番人数がいた時は、ラフマニノフの交響曲2番なんて大曲ができたし、何よりもコントラバスが9人もいて、トロンボーン、チューバをバンバン鳴らして、映画音楽やバレエ音楽もできましたが、最近は特に弦楽器が少なくて、トロンボーンのない曲を選曲せざるを得ない状況になっています。

これは、何もコロナのせいだけではなくて、どんな組織でも、人数が一定と言うことはなくて、波が寄せては返すように、増えたり、減ったりするものだと思います。

最近入った人は、しきりに「人が減った」とか、「人が少ない」とかいうのですが、40人もいる趣味の団体が少ないわけはなくて、この人数でもやれる曲はいっぱいあるわけです。

ただし、大好きなチャイコフスキーは難しいです。

とはいえ、練習の時に弦楽器のパートが一人か二人という状況は確かに心細いし、実際に音量は出ないわけです。その意味では確かに「少ない」という点は認めましょう。

でもね、私は思うんです。自分でオーケストラを作った時は、私しかいなかったんです。最初っから60人も90人もいたわけじゃないんです。0から1の1は私。そして、1は頑張れば10にも100にもなるんです。

パートが思うように揃わないのは、アマオケの大いなる悩みです。自分の都合の良いようにはなかなかいきませんが、最初っから、それぞれの楽器の奏者が比例して正規分布しているわけではないから、これは織り込み済みだし、そうでないといけないんですね。

その意味では、97人いた時は、幸せだったのかもしれませんが、その分揉め事も多く、落ち着かない状況であったと思います。

要するに、何が言いたいかというと、0から1にする熱量は1を100にするのとは比べものにならないくらい高いものでなくてはいけないし、そこには多くの幸運と、テクニックが必要なんです。

そして、1を100にするには、0から1を作り出すのとは全く別の価値観と概念とテクニックが必要なんです。また、組織は呼吸をするように人数を増やして減りするものだし、楽団の勢いというのも同様に、バイオリズムのある生き物のようなものなのです。

大切なことはぶれないことです。何にためやっているのか、目的と手段を間違えないことです。

正直に書くと私はまた97人にしたいとは全然思っていません。あの時の苦労はもうゴメンだし、あの時のように若くもないので、正直疲れます。

ただ、標準の2管編成の曲ができて、選曲に制限ができないくらいまでには弦楽器の人数は増やさないとな、と思っています。

コロナのこの状況で、なかなか難しいものがありますが、楽しんで楽団運営していけば、その未来はそんなに遠くないと思っています。

アマオケを辞めるわけ2

こんにちは、指揮者のひともぢです。

このブログは足掛け15年やっているのですが、検索で一番読まれているのが「アマオケを辞めるわけ」という過去のエントリなんです。

なんで、そんなエントリが注目されているのかはよくわかりませんが、多くのアマオケがこのコロナ禍で不自由な活動を強いられている中で、新しいアマオケを探す人や、今のオケに不満がある人なんかが検索しているのかな、と想像します。

前回も書きましたが、アマオケを辞める人は、常に同じ理由で辞め続けるという意見は変わっていないです。指揮者が気に入らない人は、次のオケでも指揮者が気に入らないし、運営が気に入らない人は、次のオケでも運営に問題点を見つけてしまい、パート内で揉め事があって嫌になる人は、次のオケでも同じ目に遭います。

なんで、私ばっかりこうやってパート内で揉め事が……。と思うかもしれませんが、答えは簡単です。揉め事の原因がその人自身にあるからです。

それは、その人が「悪い」わけではなく、その人の考え方や行動が何にも変わっていないから、同じような目に遭うのだと思います。

その後1つのはっきりした原因を見つけましたので、再発防止のために書いておきます。

それは「自分の意見が通らないときに怒るから」です。

音楽に指揮者が必要な理由はいくつかあるんですが、その最も大きなものは、音楽の方向性を決める人間必要だからということに尽きると思います。

50人のオーケストラでみんなの意見を聞いていては、テンポ一つ決まりません。あるパートはゆっくりやってほしい、あるパートは速くやってほしい。そんなことをいちいち話し合っていては時間がいくらあっても足りませんし、人間関係の力で決めれば、負けたパートはいつも負けて不満を持つわけです。

だから、最初っから交通整理だけを専門にやって音を出さない指揮者が必要なんです。

ところが、これが運営になるとちょっと難しくなって、絶対権力者を設定すれば、それはそれでその人と合うか合わないかだけに集約されるので問題点は明確になりますが、うちのように民主的にやります!などと謳っていると、「自分の意見も取り入れてもらえる!そもそも自分の意見は正しいのだから」と思う人がどんどん出てきます。

何かを言えば、必ずそれについて賛成反対、メリットデメリットがあるものなのですが、ちょっとでも反対意見を言われると「人間性を否定された」と思ってしまい、激怒するわけです。

多数決をやったって、満場一致でない限り、必ず否決される意見は出るわけです。意見が仮に5つ出れば、妥協はあるにせよ、4つの意見は却下されて、採用される意見は1つだけです。

「せっかく意見を言ってやったのに」と思う人は、そもそもその段階で間違っています。オーケストラは50人からの団体です。意見を言うことの重要度は高いですが、一人の意見は1/50の重みしかないので、取り上げられる確率は限りなく低いんです。

自分に権限がある場合は、思ったことをどんどん提案してどんどん実行していきましょう。しかし、そうでない場合、自分の意見を「言うチャンス」は当然あります(うちのオケの場合)が、全ての意見を均等に実行することはできません。

私は他のオケでも状況は大体一緒なのかな?と想像しています。

運営はみんなで分担しましょうというのはお題目だけ。結局は一部の人だけが頑張ってやるだけで、多くの人はみてみぬふり。だったり、選曲は結局いつも一部の人の意見ばかりが通って偏りがある。だったり。何がしかの不満はあるものです。

一つのアマオケに何十年も在籍している人がいますが、そういう人は自分の意見を取り入れてもらえる立場にいるか、最初っからオケにはそういう機能を期待していない人なのではないでしょうか?

その一方で、本当に演奏会一回ごとにオケを変えている人や、演奏会まで我慢できない人も多く聞きます。

別に一つところにずっといることがいいことだとは思いませんが、少なくとも、腹を立てて辞めていくことを続けていくのはあまり良いことではないと思います。

前回と同じ結論にはなりますが、オアシスのようなオーケストラはありません(あれば、それはオアシスでありパラダイスです。大事にしてください)。自分が変わること、自分のルールを人に押し付けないこと、自分が大切にしている物や事を、他人も同様に大切にしてくれると思わないことです。

ストレスを解消できる趣味の活動が自分の気持ち一つで手に入るのですから、やってみる価値はあると思いませんか?

組織の要諦

こんにちは、ひともぢです。

ずいぶん時間が経ってしまいました。前のエントリを見ると、史上最高の1年にする!なんて宣言していますが、9ヶ月が経ち、ほとんど練習できないばかりか、演奏会は中止になり、楽団創設15周年の記念行事も何一つできない状態が続いています。

ブログもすっかり放っておきになっています。すみません。もともとこのブログは楽団に興味を持った人が、「どういう考えでこの楽団をやっているのか」を知ってもらうために始めたんですが、15年前はブログというメディアがほぼ情報発信の唯一の存在でした。

今では、Twitter、Instagram、Facebook、Youtubeとこの楽団でも様々なメディアを使っています。決してブログは廃れたわけではなく、その役割立ち位置が変わったのだなと思います。

速報性の高いTwitterは毎日更新して、楽団の認知度を高める目的で使っています。若い人に親和性の高いInstagramは画像のインパクトでやはり認知度向上を図っていますが、こちらはあまりうまく使えていません。Facebookは比較的年齢が高く、ちょっと突っ込んだ内容を展開できます。そして今後一番力を入れなくてはいけないと思うYoutubeですが、こちらは、なにしろ練習できないので、素材を集めることができず、更新が滞っています。

一時期は、tiktokも考えたのですが、ユーザー層が私たちの求めるものではないと思い、手を出さずにいますが、今後変わるかもしれません。

さて、ブログですが、もともと私の考えを書いて、後から入ってきた人にも違和感なく参加してもらうことや、演奏会に来てくれた人が納得してくれることを目的として始めました。

というのも、この楽団は普通のアマオケを目指しているわけではないからです。

例えば、うちの演奏会は0歳児から入場できます。音楽を聞きに来ているので、雑音を出すのはご法度です。実際、飴やガムの包み紙をカサカサしないようにとマナー啓発は行なっています。その一方で、赤ちゃんの入場は認めている。これは矛盾するのでしょうか?

私は矛盾しないと思います。聞き分けのある大人が、演奏の前に飴やガムを用意するのは、できて当然です。演奏が始まってから喉が気になってというのは、何にも考えていない証拠です。

しかし、赤ちゃんが泣いたりぐずるのは「仕方のないこと」です。この文章を読んでいるすべての人が、赤ちゃんだったことがあるわけで、当然、誰のいうことも聞かずに泣いたりぐずったりしたわけです。

0歳児を抱えたご両親にも演奏会に来てほしいし、0歳児にこそ本物のオーケストラの音を聞いてもらいたい、これがこの楽団の考えです。

演奏する人にも、通常のオーケストラの「常識」には反したルールがいっぱいあります。過去のエントリを読んでいただければお分かりだと思いますが、相当に風変わりなルールがありますが、それはすなわちこの楽団の理念なんです。

こうした理念をしっかり文章に残すことは、組織を維持反映していく上で大きな意味があると思います。

会社は「お金」で持って社員を縛り付けることが可能です。しかし、趣味の団体、アマチュアオーケストラはそうではありません。そういう人が集まる集団を維持していくには、はっきりとしたルールと、共有できる「考え方」の2つが重要だと考えています。

この楽団を作った時に、一番最初に作ったのは、ホームページとそこに記載する「楽団規約」です。今も、楽員募集のページに規約が載っています。これを読めばこの楽団のルールは大方わかります。もちろん、細かい不文律みたいなものも長い時間の間に作られています。

そして、共有できる「考え方」をお伝えするのには、コミュニケーションを図ることが大切で、それが故にこの楽団は毎回の練習の後に運営委員会という名の、食事会・飲み会を開催しています。

話さないと人間は理解できません。話さないから理解できないんで、嫌いな人や嫌な人と接触を避けると、必ず決別します。

いま、食事会ができる状況ではないので、それに代わるものとして、このブログのエントリの頻度を今後は上げていこうと思います。

このコロナ禍で楽員もずいぶん減ってしまいました。しかし組織は増えることもあれば減ることもあり、曲線を描きながら、進んでいくものです。そのための規約はしっかりしており、あとは今私は何を考え、どう思っているのかをしっかり発信していくことだと思っています。

コロナ禍の収束はまだまだ見えてきませんが、今できることをしっかり続けていこうと思います。

2021年の文京フィルは過去最高の一年にします

みなさん、新年あけましておめでとうございます。指揮者のひともぢでございます。

Twitterに毎年ブログで1年を振り返っているのが恒例だ、みたいなことを書きましたが、確認してみるとそんなことしていませんでしたね。まぁ今年もそんな感じですよ。

2020年はどんな人にとっても、未経験の1年になりました。

文京フィルも、2月までは通常練習していましたが、3月は練習会場の貸し出しが停止し、一般の練習場を確保することになりました。なりましたが、楽員が、家庭や会社や様々な事情で練習に参加できなくなり、自主練習の1ヶ月間となりました。

4月に緊急事態宣言が出され、練習は全面的にストップ。

毎週土曜日手持ち無沙汰になった楽員と一緒に、ZOOMで飲み会を行い、コミュニケーションを取り続け、楽団の最高意思決定期間である評議会も、全楽員ミーティングもZOOMで行うなど、新しいツールを導入することができたのはよかったです。

6月に緊急事態宣言が解除される前に、都内の練習場の情報をしらみ潰しに当たり、解除後はすぐに練習を再開。しかし、3月の時以上に、楽員は練習に来られなくなり、そうこうしているうちに、一人辞め、二人辞めと、ポロポロと人数は減っていきました。

毎回の練習もそれまで大体30人くらいは来ていたのが、20人くらいになり、毎週パートに歯が抜ける状態が常態化してきました。

とはいえ、そんな状態は楽団創設時もそうだったし、私たちは演奏会をする団体ではなく、毎週の練習を頑張る楽団なので、参加する楽員で協力し、話し合いながら練習を進めていきました。

もちろん、感染症対策は、コロナ以前からしっかりやってきたつもりですが、距離を2メートルとり、管楽器奏者はフェイスシールドをしたまま演奏してもらっています。手洗いや消毒もやり、1時間に1回の換気を行い、この楽団の代名詞ともなっていた、練習後の運営委員会という名の食事会も、7月からは中止しています。

一部の楽員からは、やりすぎではないか?という声もありましたが、こういうことはやりすぎるくらいでないといけないというのが私の考えです。国や都のようにしがらみのない、私的な団体なので、とにかく徹底的に感染症対策を行わないと、万が一感染者が出てきたときに、「何をやっていたんだ!」という批判に応えられないからです。

そんな思いをするなら、練習しなければいいのに、という考えもあるでしょう。

しかし、私はそれはただの思考停止だと思います。危ないから何もしない、というのは知恵のある文明人のやることではないとも断言します。自分の頭で考えて、やれることを全部やるべきだし、命を奪うウイルスであっても、戦いを挑み、私たちの日常を自分の力で確保すべきなのです。

この考えは誰に対しても強制はできません。しかし反対に、感染症対策をやっているのですから、誰からも非難される言われもないと考えています。

一番ショックだったのは、5月の演奏会を中止したこと、そして本当であれば8日後に行うはずだった演奏会を延期したことです。

こんなことは、あの東日本大震災の後でもなかったことで、楽団を作ってからもっと衝撃的な事件だと思います。

でもね、これも考え方次第ですよ。

「人間万事塞翁が馬」というではないですか。私は荘子の信奉者なので、「無為自然」を最上のものと考えています。コロナのせいで、私たちは古い日常を捨てることができるのだと考えます。

アマチュアオーケストラも新しい形に適応できる楽団が生き残り、適応できない楽団は消え去っていきます。オーケストラ自体が、もうすでに過去の遺物になっているのかもしれないとも思います。

私たちは、アマチュアオーケストラが楽しいんです。だから、やめずに続けていきます。可能な限り安全を確保しながら。

この間、さっきも書いたようにZOOMで会議ができることがわかりました。Youtubeの動画にも手を広げましたし、noteも作りました。

私は2021年の元旦にあたり、高らかに宣言します。

楽団創立15周年の今年、文京フィルは見たこともないほどの飛躍の一年にします。

過去最高の見学者を集め、過去最高の演奏会来場者を目指します(うちの楽団は演奏会の、演奏の質を目指さない楽団なんです)。

1年後の今日、2021年は心の底から良い一年だった。と胸を張っていえるように、やれることをやります。やれないことは頑張りません。

私たち学院もそうですが、演奏会に来てくれる方、このブログを読んでくれている皆さんが、健康で、楽しいクラシック音楽を、今まで以上に楽しめる1年になりますように。心から願っております。

今年もよろしくお願いします。

コロナに負けずにもがいています

こんにちは、指揮者ひともぢです。

6月に練習を再開して、もう直ぐ5ヶ月になります。その間、楽員にコロナ感染者を出すことはありませんでしたが、これは何も対策をしっかりしたというよりも、単に運が良かっただけだという気がします。

前回も書いたように、感染症を完全に防ぐには、一切外出しない、誰とも接触しないという徹底したディフェンスが必要だからです。

趣味の活動なのだから、危険を冒してまでやる必要はないと考える方も多いと思いますが、私は3つの点でその考え方をとりません(そういう考え方の方を否定するのではなく、私は違う行動をするという意味です

一つは、歴史に学ぶということです。私は今回の新型コロナウイルス感染症の騒ぎが起こった時に、一番最初にやったことは、wikipediaで過去の感染症について調べたことです。14世紀のペスト、100年前のスペイン風邪、50年前の香港風邪、20年前のSARSなどです。

もちろん当時とは医療の進化が違ったり、人の移動距離が全然違うなど色々と違っていることはありますが、まず分かったことは、ペストを除いて、当時の医療技術では治るまでに3年くらいかかり、そのなかで第1波、第2波、第3波と、波状にパンデミックが起きていることです。つまり、このコロナとの戦いは数年かかるということです。

では、その数年間、ずっと身を潜めていることは可能でしょうか?

これだけインターネットが発展していると実際には引きこもり生活も可能でしょうが、私は実際に対面でオーケストラの合奏がやりたいのです。生活に必要か?と聞かれれば、趣味の時間は精神に対する作用からも、人生に対する潤いという点でも私には必須なものです。仕事して、食べて、寝ての人生は言い方は悪いですが、家畜の人生だと思います。

過去の歴史から分かったことは他にもあります。感染症対策の基本は、衛生的な環境と自己免疫力です。難しい言葉を使わなくても簡単な話で、手洗いうがいをして、笑って暮らすことです。

コロナウイルスを甘くみてはいけませんが、やれることを最大限にやって、その上で普通に近い生活をしないと、ありとあらゆることを制限されて、防空壕の中で暮らし続ける生活を長期間続けると、精神的にどういう影響があるのか、確たることは言えませんが、私は精神に良い影響があるとは思えません。

この普通に近い生活をする、ということがすなわちコロナとの戦いなのだと思います。

そして2つ目です。私は人生でも、音楽でも「思考停止」を一番嫌います。フェルマータはこれくらいの長さだ、とか、この曲はこう演奏するものだ、とか、@@はこう振っていた、とか、自分で考えずに演奏するのはつまらないし、音楽に対する冒涜だとさえ思います。

同様に、コロナウイルスが蔓延した。危ないから家でじっとしていよう。というのは、私には思考停止に見えるのです(モーツアルトはこう演奏するものだ、という考え方同様にその考え方は否定しません。)。

私は恐ろしい感染症が蔓延していることには十分注意を払いながら、いかに自分らしく生きるか、模索して、もがいて、足掻きたいのです。人間に生まれたのですから。こうした考え方を私はベートーヴェンから学びました。

決めつけたものの言い方になりますが、バッハはひたすら神に対する賛美を行い、モーツアルトは純粋に音楽を極めましたが、ベートーヴェンの音楽には哲学があります。それは「いかに生きるか?」という大きな問いです。

「問い」は大切です。

私はコロナ環境下でいかに新しい生活を、新しい音楽を、新しいアマオケのあり方を、問いかけています。いや、ちょっと違いますね。コロナに問われていて、それに答えを出そうとしているのだと思います。

例えば、手を洗うことが重要なのではありません。何も触れていなければ(空気中にウイルスが浮遊していなければ)ウイルスは手についていないので、手を洗う必要はありません(わかりやすく断言しています)。つまり目的は手にウイルスをつけないことで、ついてしまったウイルスを他に広げないために手を洗うのです。

密閉された部屋で、密集して息を吐く管楽器が演奏するというのは、「三密回避」という観点から考えると、思考停止していれば「無理でしょ」と簡単に結論が出ますが、密閉がダメなら、換気をすれば良いし、それがどれくらいの部屋に対して、何人いる時に、どれくらいの頻度で換気をすれば良いのか「考えれば」良いのです。

その考えることをせずに「三密回避」だけを高らかに謳っているのでは、それは思考停止をしているだけです。

文京フィルハーモニック管弦楽団は、感染症対策を万全に厳重に行った上で、練習を実施しています。コントロールできないことまで管理していませんが、コントロールできることに対しては、楽員から「やりすぎなのでは?」と言われるほどやっています。

例えば、管楽器奏者は演奏中フェイスシールドを顎まで下げて演奏してもらっています。私ももともとトロンボーン奏者ですから、それがどんなに煩わしく大変かわかりますが、それでも選択肢は2つしかないのです。その条件で演奏するか、諦めて家で寝ているか。

私たちは、実験を繰り返し、「三密回避」の命題をクリアしてオーケストラの合奏を続けていこうと思っています。

そして3番目は、「同調圧力」です。このコロナで「同調圧力」という単語が以前よりも聞かれるようになりましたが、例えば電車の中でマスクをつけていない人と喧嘩になる。などというニュースがそれにあたります。

電車の中でマスクをしない人と、マスクをつけて大きな声で喋っている人とどちらが、感染症にとって悪影響があるでしょうか?私は答えを持っていませんが、前者は社会的に非難されますが、私も電車や地下鉄に乗りますが、後者はいっぱいいて、誰からも注意されているのをみたことがありません。

自分が我慢しているのだから、お前も我慢しろ、という同調圧力は日本社会においては、「和」を作るために必要な部分もあるのだと思いますが、少なくとも芸術をするのには全く必要ありませんし、そもそもこのオーケストラは他のアマオケがやっていないことをやろうと思って始めたのです(オーディションをしないとか、月の団費をとらないとか)。

我慢を押し付けるのもおかしいし、自分が危険を冒しているんだから、あなたも頑張りなさい、も全くナンセンスで、大切なのは自分一人の頭で考えて、自分の行動に責任を持つことなのだと思います。

この「責任」は感染に対する責任ではありません。くどいようですが、どんなに頑張っていても感染する人は感染してしまうものだからです。

フェイスシールドの他に、パーテーションを使用した練習の実験を行いました。これを使えば、2メートルの距離を取らなくても、飛沫感染防止になるからです。弦楽器はすでに2メートルではなく、1メートルに狭めています。演奏中は喋らないし、マスクを常に着用しているからです。

画像は実験としてハンガーラックにラップを巻いてみたのですが、抗菌のビニールシートの薄いのが良さそうだということもわかってきました。今は金管楽器のベルからのエアロゾル対策を模索していますが、これからは部屋の湿度をどうしたら良いか(高い方が感染症対策には良いが、楽器にはよくない)、部屋の換気をどうしたら良いか、いろんな選択肢を模索して、実験して、自分の頭で考えて、新しい時代の新しいアマオケのあり方を見つけ出したいと思います。

コロナに負けないという気持ちも強いですが、コロナが出してくれた問いに、最速で最高の答えを出し続けていこうと考えています。

文京フィルのメディア戦略

こんにちは、指揮者のひともぢです。

コロナ環境下も半年を過ぎ、慣れて来たとも、飽きて来たとも言えるのかもしれませんが、それでもこの状態はまだまだ続くのではないでしょうか。

そんな状況下、練習に参加できない楽員もおり、毎回の練習は少ない人数で実施せざるを得ません。特に弦楽器の人数が少ないことのダメージは大きいです。

「どんなに良い製品でも知られなければ、存在しないのと一緒だ」という言葉があるそうですが、誰の言葉か忘れてしまいました。スティーブ・ジョブズだったかなぁ。

今年、文京フィルは楽団結成以来使っていたwikiからwordpressに公式サイトを移して、平成版から令和版にアップデートしました。

しかし、最近の若い人は、PCよりもモバイルだし、ホームページやFacebookよりも、instagramやYoutubeなのだそうです。このブログもどれくらいの人に読んでもらえるのかわかりませんが、ブログの購入者は2967人いて、ちなみにTwtitterのフォロワーは2961人とともに三千人弱の人にアプローチできるメディアに育って来ており、反対に、Instagramのフォロワーは145人、Youtubeチャンネルの登録者数は63人と圧倒的に貧弱です。

ある程度乱暴な理屈かもしれませんが、つまりはブログとTwitterのフォロワーが多く、YoutubeとInstagramのフォロワーが少ないということは、あまり若い人に情報が行き届いていないのではないか?という仮説が成り立つと思います。

先週の練習で撮影した素材を使ってこのようなYoutube動画を作ってみました。

確かに、今はオケの活動を活発にはやりにくいです。でもそういう時期だからこそ、社会人アマオケの楽しさを多くの方に知っていただいて、安心して参加していただきたいし、もし今は参加できなくても、コロナ禍が過ぎれば、見学に行ってみたいと思ってもらえるように、広報活動を活発化させて、攻めて行かなくてはいけないと考えています。

14年前から言い続けているように、アマオケは一部の好事家だけの高尚な楽しみではありません。もちろん楽器の習得は、大変に難しく、並大抵の努力では成し遂げられませんが、それでも楽しみたいと思う多くのアマチュア奏者、これから楽器を始めてみたいと思った初心者にとっての敷居を低くしたアマオケで私たちはありたいのです。

日本一下手くそなアマオケと言われても、それは事実なので結構ですが、そうではなく「日本一初心者に優しいアマオケ」であると、皆さんに知られるようになりたいと思っています。

第700回練習

指揮者のひともぢです。

一年前はこんなことになるとは夢にも思っていなくって、今年に入っての環境の変化は、私が53年生きてきて最大のものだと言っていいと思います。

700回目の練習を終えて

自分で始めたこのアマチュアオーケストラをどう続けていくのか?毎日自問自答しながら、いろんな人の話を聞き、そして外部から情報をインプットしています。

何が正しいのか分からないことは、人生でも珍しくありませんが、自分一人の人生ではなく、オーケストラという組織はとても多くの人の人生が複雑に絡み合っています。まさに、社会の縮図なのですね。

3月に自主練習に切り替え、4月から二ヶ月間は、緊急事態宣言を受けて、活動を自粛しました。6月から練習を再開し、毎回感染症対策をやれるだけやって、続けていますが、それでも、毎週、ああ今週は練習できてよかった、と思い、来週は練習できるだろうか?と不安に思う日々です。

そして、今日文京フィルハーモニック管弦楽団は700回目の練習となりました。2006年8月から練習を始めて、14年間、ちょうど一年50回ずつを14年続けて700回です。

私は「継続は力なり」を座右の銘としており、この楽団は100年続くことを目指して立ち上げました。

100年続くと計算上は5000回の練習になるはずですから、道のりの14%を過ぎたところと言えます。

楽団運営も10年を過ぎて、基礎はできたかな?と思っていたのですが、コロナショックはそんな甘い見通しを木っ端微塵に打ち砕いてくれました。

当たり前のオーケストラの合奏が出来ない世界があるとは思ってもみませんでした。

しかしながら、継続は力なのです。やれることをやって続けることでしか、生き残ることは出来ないでしょう。

楽団としては、出来る感染症対策を行いながら、地道に練習を楽しんでいこうと思います。

もしかしたら、恐竜が滅亡したように、オーケストラも滅亡するのかもしれません。そんなことは起こって欲しくないし、あり得ないという思いもありますが、形あるものは必ず壊れます。

国や組織がそうであるように、生命がそうであるように。

しかしそうであるならば、私は絶滅危惧種であることを自覚しつつ、生にしがみついていこうとします。

もし、世界中のオーケストラが絶滅するとしても、最後に滅びるのは文京フィルハーモニック管弦楽団であることを目指します。

練習再開にあたって

6月に入り、緊急事態宣言が全国で解除されてから、文京フィルハーモニック管弦楽団は都内の施設で練習を再開しました。

楽員の中でも様々な考え方があり、練習参加者は全楽員の半分くらい、通常練習の2/3くらいのメンバーが集まっています。

国が平常の暮らしと言っているんだからいいじゃないか派と、第二派が来るようなことは控えた方がいいんじゃないか派と、多分それ以外にも様々な考え方があると思います。そうした中でなぜ練習を再開したのかについて書いておこうと思います。

2メートルの距離をとって合奏しています

まず、感染症にかかることは罪ではありませんし、謝る必要があることでもありません。これは間違い無いです。感染症は人に迷惑がかかるから、という風に「感じる方」がいるのは否定しませんが、そもそも論でいえば、感染症対策をしっかりやったかやらないかすらどうでもいいんです。

その証拠に、感染症対策をしっかりやっている医療従事者でも感染する人がいます。つまり、しっかり対策をしている人ですら感染するのですから、感染を防ぐことは相当難しいことですし、それは言われているように死亡率の違いやワクチン、薬の有無などありますが、風邪やインフルエンザでも同様だったわけです。

芸能人やスポーツ選手が感染したら謝罪をしていて、曰く「ご迷惑をおかけして」。それはそうですが、病気なのですから仕方のないことです。誰だって好きでかかっているわけではないのですから。それを「感染症対策もせず」と言って他人を叱責するのは、気分の問題であって、自粛警察やマスク警察のように行き過ぎた、正義の暴力がまかり通ることになるわけです。上述のように医療従事者ですらかかるのですから。

では、医療従事者ですらかかるのだから、一切家から出ない方がいいのだ、というゼロリスク理論を唱える人もいます。それも考え方です。危ないことは一切やらないで、外出もしない、人とも話をしない、オケの練習なんてもってのほか、という人もいらっしゃるでしょう。

その考え方は否定できませんが、そういう人はそもそも練習には来ないので、楽団が練習を再開しても、影響ないし、他人の行動を制限することもないです。

硬いフェイスシールドでは演奏しにくいので、こういう工夫もしています

問題は、結局のところ、練習はしたいけど、コロナは怖いという考え方です。

結論から書けば、それは「個人の感じる程度問題」ということに落ち着きます。

本当の意味での「感染症対策」ということであれば、練習のある土曜日だけ一生懸命やってもダメです。平日通勤電車に乗り、会社や学校へ行き、飲み会や会食をしている人はウイルスを保有している可能性があります。

リスクをゼロにしたいのであれば、そういう平日の行動すべてをアマオケが管理しなくてはなりません。平日一歩も家から出なかった人だけ、土曜日の練習参加を認めますw。このおかしな論理矛盾はメビウスの輪やクラインの壺のようなものなのです。

演奏しにくくても、フェイスシールドを着用して合奏します

では、上にも書きましたが、程度問題ならば、感染症対策なんて面倒くさいし、結局かかるかかからないかは運なんじゃないの?という極端なことを考える人もいるようです。しかし、それは間違いです。土曜日の感染症対策は無意味かというと、そうではありません。仮にウイルスを持っている人が参加したとした時に、感染症対策を行うことで、クラスター感染を防ぐことができます。

しつこいようですが、クラスター感染をゼロにしたいのであれば、接触をゼロにすることです。しかしそれが現実的でない以上、そこから先は「程度」問題ということになります。例えば、借りる練習会場や食事をするお店のルールに従い、さらに参加する各人が手洗いや消毒に努めることにより、感染のリスクは下げることが可能です。

そうしたことを全て考えた上で、「結局うちの楽団は何を一番大切にしているんだっけ?」ということを問うたときに、出てくる答えは、「練習とコミュニケーションを大切にしてきた」ということです。

あとで、コロナがいつか笑い話になった時に、または別の何かのせいで楽団活動が制限されるようになった時に、今回のことを思い出す意味で、今日のエントリを行いました。文京フィルは自分たちの価値観を守るために、楽員の多様性を認めつつ、今後も「できうる限りの感染症対策」を行なった上で、活動を続けていきます。

前代未聞の演奏会中止

こんばんは、指揮者のひともぢです。

公式サイト等で既にお知らせしておりますが、5月2日に実施予定でした、弊楽団の第20回定期演奏会については、実施を見合わせることが決定しました。

思えば、2006年に楽団を立ち上げて、2011年に東日本大震災があり、合宿などは実施できなかったことはありましたし、震災以降の輪番停電などの影響で、練習会場が使えなくなり、あちこちをジプシーのように点々としたことはありますが、練習を休んだことはありませんでしたし、震災から2ヶ月後の演奏会は無事に開催できたわけです。

新型コロナウイルスという目に見えない微細な生物の破壊力は抜群で、世界中で多くの人が亡くなっている中で、趣味の活動なんて取るに足らないだろ!というご指摘もあるかと思いますが、今回の新型コロナウイルスは、現代に生きる私たちに様々なことを問いかけているような気がします。

私たちは趣味ですからいいのですが、プロの音楽家の生活が成り立たなくなっていることはみなさんご存知だと思いますし、音楽活動は「不要不急」なのか?という問いには、すでに自宅勤務を何日もやっている方こそ、音楽に飢えていたり、運動がしたくなったりしていることからも、それは「要で急」であることがわかると思います。

もちろん命が大切ですが、お金がないと生きていけないのも事実。また生活に潤いがないと、生きていくのが辛いのも事実。

こんな時だからこそ、音楽や笑いなどが、人間の暮らしに重要な影響を与えることを考えると、何を最優先すべきなのか、あまりに複雑すぎてわからなくなってしまいます。

とにかく、早くこの騒ぎが収まり、一人でも多くの人が早く健康を取り戻せることを願ってやみません。くれぐれも人間同士で攻撃し合うことなく、助け合うことこそ、人類に求められているのだと確信します。

新型コロナウイルス対策

指揮者のひともぢです。

ブログの更新がずいぶん久しぶりになりました。実はこの楽団を創設以来ずっとwikiを使ってサイトを運営していたのですが、ダサい!ダサ過ぎる!!と糾弾を受けまして、ブログで使っていたwordpressに引っ越してきました。

昨日、無事に引越しが終わりグランドオープンとなりました。嬉しくなってブログを更新しようと思ったのですが、色々勝手が違って戸惑っています。

戸惑うといえば、新型コロナウイルスです。私はクラシック音楽界の情報はほとんどTwitterから得ているのですが、プロアマ問わず、演奏会の中止する、延期する、配信にすると対応に追われているようで、その一方で、通常通り演奏会を実施する楽団もあるわけです。

こういう選択肢というのは大抵どちらを選んでも正解で、どういう考え方で選ぶのかが大切な訳ですが、今回のようにどちらを選んでも「不正解」という、まるで「コバヤシマルテスト」のような問題を、これから生きていく人間は解いていかなければならないのだと思います。

うちの楽団は、練習会場がなくなる、または鉄道、地下鉄が止まる、などの場合以外は原則実施。あとは楽員の自己判断に任せるという方針でやってみようと思っています。

自己判断が無責任だという意見もあるのかもしれませんが、私はむしろ、政府や、自治体や、例えば会社や、所属する楽団の決定に自分の行動を任せるのは嫌で、自分の行動は常に自分で決定して生きてきました。

アマチュアオーケストラは仕事でも生活でもなく、趣味の活動です。誰かを傷つけたり、迷惑をかけることなく、自分の頭で考えた行動をしていきたいと思っています。